転載 (みをつくし語りつくし)勝部麗子さん:1

 朝日新聞が、「コミュニティーソーシャルワーカー」の勝部麗子さんという人について、10回にわたる、とてもよい連載をしたことがあります。しかし、残念ながらそれは、web版では会員登録をしなければ、途中までしか読むことができないものでした。また、今では掲載期間も終わってしまっています。

 そこで、せっかくなので、私がテキスト化して保存していたものから、会員登録なしで読めたところまでの転載と、それより後の部分の要約とをしていけたらと思います。

 では、まずは第1回です。第1回については、私の記録がまちがっていなければ、記事全体が公開されていたのではないかと思います。いちおう、掲載期間中のURLは次のものでした。

http://digital.asahi.com/articles/ASJ8M3VLPJ8MPLZU005.html?_requesturl=articles/ASJ8M3VLPJ8MPLZU005.html

(追記)この記事を紹介しているページに画像ファイルがあったので、下にそのURLを付け足します。
http://www.access-town.com/image/free/20160921093608.jpg

(みをつくし語りつくし)勝部麗子さん:1
神田誠司
2016年9月26日16時31分
■コミュニティーソーシャルワーカー
■「困った人」は困っている
 2年前にNHKで放映された「サイレント・プア」というドラマをご存じでしょうか。社会福祉協議会で働く「コミュニティーソーシャルワーカー」の主人公を深田恭子さんが演じました。
 舞台は東京・下町の社協という設定でしたが、ドラマに出てくるエピソードは、豊中市社協が実際にかかわったケースが下敷きになっています。ドラマの監修もしたので、主人公のモデルは私だとみんな思っているようです。
 でも、ドラマをご覧になっていない方には、コミュニティーソーシャルワーカーがどんな仕事か、分かってもらえないかも知れません。
 ドラマの中にも出てきましたが、私たちの受ける相談の一つに「ごみ屋敷」の解決があります。ゴミをため込んでしまう、ごみ屋敷の住人は「困った人」と近隣の人から思われがちです。
 でも、実際に話をうかがうと、病気になったり、高齢で足腰が弱って重いものが運べなくなったり、生きる気力を無くしたりしている方が大半です。「困った人」と思われている人は、実は「困っている人」なんです。
 豊中市では、コミュニティーソーシャルワーカーが中心になって、住民ボランティアと一緒にごみの片付けを手伝います。そして困っていることの相談にのり、地域の中で孤立しないように住民とともに支援します。そうやって400件近くを解決してきました。
 最近、問題になってきたひきこもりの人たちの支援もコミュニティーソーシャルワーカーの仕事です。
 いじめだったり、大学受験の失敗だったり、リストラだったり、人生のどこかでつまずいて、家にこもってしまった人たちです。親御さんもどこに相談したらいいのか分からず、5年、10年とたって。私が支援させていただいた中には30年という方もいました。
 私たちは、そうした方が再び社会とつながる手伝いをします。外に居場所をつくって就労体験をしてもらい、就職にまで結びついた方が40人近くいらっしゃいます。
 でも、お気づきでしょうか。ごみ屋敷もひきこもりも、既存の制度や法律だけでは解決することのできない、いわば「制度のはざま」の問題です。コミュニティーソーシャルワーカーはこうした「制度のはざま」の問題を住民と一緒に発見し、解決するために大阪府が全国に先駆けてつくった専門職です。
 いま申し上げた「住民と一緒に」というのが大切です。「制度のはざま」で困窮している人は自分から「助けて」と声をあげません。誰かが「ここに、こんな人がいる」と気づかなければ支援の手は届かない。豊中でその役割を担っているのが、住民の皆さんです。
 高齢者や障害がある方への日常的な見守りや、「福祉なんでも相談」などを通して、地域で困っている方を発見し、私たちにつないでくれることで、初めて支援の歯車が動き出します。
 豊中には、そうした活動をしてくれるボランティアが各小学校区に100人から200人、全市だと約8千人いてくれます。この人たち抜きでコミュニティーソーシャルワーカーの仕事はとても立ちゆきません。
 人口約40万人の豊中市は、大阪のベッドタウンとして発展した市です。転勤族も多く、自治会の加入率は5割を切っています。そんな市で、なぜ多くの住民がボランティアに参加してくれるのか。助け合いのできる地域を、どうやって住民と一緒につくってきたかを、お話しできればと思います。
 私は、豊中市で生まれ育ちました。大学まで教師を目指しましたが、あることをきっかけに福祉志望に転じ、29年前に市社協に入職しました。この間、いろんな人たちと出会いました。まず次回は、小学生のときに社会に目を開かせてくれて大好きだった女先生のことからはじめようと思います。
     ◇
 かつべ・れいこ 豊中市生まれ。1987年に豊中市社会福祉協議会に入職。2004年にコミュニティーソーシャルワーカーになる。ごみ屋敷など「制度のはざま」への取り組みが認められ、同社協は09年度の「日本地域福祉学会 地域福祉優秀実践賞」を受ける。厚生労働省社会保障審議会の特別部会委員として、15年施行の生活困窮者自立支援法策定にかかわる。NHKドラマ「サイレント・プア」のモデルになり、監修を務めた。「プロフェッショナル 仕事の流儀」にも出演。今年4月から同社協福祉推進室長。

ジーパン先生の教え
 小学校3、4年のときに担任をしてくれた先生の話をします。すごく大好きな女の先生でした。
 新卒で赴任してこられたんですけど、まず私たちが驚いたのはジーパン姿だったこと。1970年代ですけど、あのころって先生は服装もきちっとしてましたよね。男性なら背広、女性ならスカートが普通だったから新鮮で、クラスの男子も女子も突然、ジーパンで登校し始めました。
 授業も、とにかく型破りでした。黒板に大きな文字で「働くとはなにか」とか書き始めて。生徒にしたら「えっ、何」っていう感じですよね。ほかにも「男らしさ、女らしさとはなにか」とか。それで生徒に答えさせて授業を進めるスタイルで、まるで「白熱教室」みたいでした。
 「男らしさ女らしさ」の授業でいえば、「男は力が強い」と男子が答えたりするんですけど、先生は「男やから泣いたらあかんっていうけど、なんでやろ」「女のくせにえらそうにすな、とかいうけど、なんでやろ」と問いかけるんですね。
 結論は「男とか女とか関係ない。自分らしさでええんや」っていうことなんですけど、今思えば、ものの見方とか考え方とかの基礎を教わった気がします。
 あと、自分たちのまちを知ろうと、教室を飛び出して町工場にヒアリングに行って、仕事について話を聞かせてもらったこともありました。今でこそ生活科もできて、校外学習は当たり前になっていますけど、あの当時は珍しくて楽しかったな。公害の問題なんかも授業でよく話してくれて。社会に目を開かせてくれた先生でした。いまも尊敬しています。
 私は、大学の途中まで教員を志望していました。それも先生の影響があったと思います。でも、あることをきっかけに、私は福祉の道を目指すようになります。
■教育実習で貧困知る
 将来は学校の先生になろうと思っていた私は、大学3回生の春、中学校に教育実習にいきました。ところが、そこで出会った子どもたちが、私の進路を変えてしまうことになります。
 クラスにいつも遅刻をしてくる子がいました。授業中、机につっぷして寝てる子や、毎日のように忘れ物をしてくる子もたくさんいました。私は実習生で、年齢も子どもたちと近いので、授業のあとで聞いてみた。「なんで遅刻するん?」って。
 するとその女の子は「うちのお母ちゃん、朝まで仕事してんねん。そやから起こしてもらわれへんし、遅れてしまうねん」っていうんです。お母さんはシングルマザーで子どもを育てるために頑張って朝方まで飲食店で働いてたんですね。
 忘れ物をしてくる男の子は「兄弟が多くて、自分の机もないし、家が散らかってて、どこに何があるかわからへんねん」と話しました。今でいう、ごみ屋敷のような状態になっていたんじゃないかと思います。
 教育は子どもたちを幸せにするためにある。でも、学習以前というか、スタートラインにすら立てない子どもがたくさんいる事実は、二十歳を過ぎたばかりの私にはショックでした。親や家庭の生活のしんどさが横たわっていて、子ども自身ではどうすることもできない。今でいう「子どもの貧困」です。
 でも学校の先生は忙しすぎて、一人ひとりの子どもの生活を支援することまでは手が回らない。だったら、この子たちを手助けするには、どうしたらいいんだろう。そう考えるようになったときに、そうや、福祉があるって思ったんですね。
 進路の選択肢として、福祉が急に浮上してきた感じでした。福祉の勉強に打ち込むようになったのはそれからのことです。
■釜ケ崎の「弱肉強食」
 大学3回生のとき、釜ケ崎で1カ月ほどアルバイトに通ったことがあります。将来は福祉の道にと決めていたので、状況が一番厳しい人たちを知っておきたいと思ったからです。
 朝8時ごろ、アルバイト先の西成労働福祉センターに出勤するんですけど、床や周辺には、たくさんのホームレスの人が寝ていました。お酒を飲んでいる人もいて。最初のころは「この人たちはどうして働かないんだろう」と思ってました。
 でも、私はなんにも分かってませんでした。それに気づかせてくれたのが、朝3時の釜ケ崎の光景です。
 辺りが暗いうちから労働福祉センターに、マイクロバスやワゴン車が次々と集まってきました。その日の仕事に必要な数の日雇い労働者を集めにきた建設会社や土木会社の車です。1980年代後半。関西空港開港に向けた建設ラッシュで仕事がたくさんあったころです。
 そのセンターには仕事を求める数千人の労働者たちが集まっていて、その中から体の大きい人や力のありそうな人、若い人が選ばれて、どんどん車に乗せられていくんですけど、高齢者や体の弱そうな人には声がかからずに取り残されていく。
 まさに「弱肉強食」の世界でした。その光景を目のあたりにしてやっとわかりました。朝8時ごろから寝ているおっちゃんたちは働くつもりがないんじゃなくて、こうやって取り残された人たちだったんやって。
 働きたくても、高齢だったり、体が弱かったりして仕事につけず、困窮する人たちをどう支援したらいいんやろと考えました。そのとき思いました。生活保護という制度がある。最後のセーフティーネットがあるやんって。
 でも当時の生活保護の実態は、私が考えていたようなものではありませんでした。(神田誠司)