スポーツについて思うこと

 スポーツが規範と結び付くのって、すごく危険だと思う。
 スポーツって、現実の中に、ある意味バーチャルな世界を作り出して、現実では体験できない(あるいは体験できてはならない)ものを、体験できるっていう側面があると思う。 へたに現実の中で体験できるから、そこで体験できるようなことこそ、真実、価値あるもの、みたいにとらえて、そこに必要な態度・規範を、本来の現実世界に持ち込み、周りをまき込んでいくような人たちっていると思うけど、危ないと思う。

 どういうことかというと、まず、スポーツって、勝ち負けをはっきりさせるとか、敵味方を分けるとか、ルールをはっきりさせるとか、複雑でいろいろな事情のある現実の社会では、そんなにすっきりさせられないことをすっきりさせた、仮想の現実の上に成り立っているって側面があるということ。
 それから、勝利や記録など、目標を所与のものとして、その目標に対して自己を合理的に管理する態度を育む側面があるということ。 これは、「そもそもなんのため?」と問う態度が育まれていないと、案外けっこう危険だと思う。…自分だけでなく他人にも、「○○のためだろ!」と要求するようなことにもなるし。 将来、社会人になって、「会社のため」とか言って、それを社会のみんながやって、社会主義のいう資本の論理による人間疎外、みたいなことにつながる面もあると思う。…勝ち負け思考とか、敵味方思考が広がっていると、なおさら。
 ちなみに、スポーツって、とくに部活が頭にあるのだけれど、部活って、レベルがあがってくると、家族とかまでまきこんで、みんなであらゆる条件を整えて、部活だけに専念!みたいになってくる。多分、体育会系が就職で喜ばれる(まだそうなのかな?)ってのは、その、部活だけに専念!ってのを、仕事だけに専念!ってしてもらえればよい、という理由もあると思う。
 それから、日本の教育現場では、なんだかんだ言って部活が重要で、とくにいわゆる成績的に中間層以下の真面目な子たちの人間形成が、なんだかんだ言ってかなり部活でされているようにみえる。
 それから、日本では、部活や学校行事などで感動したり一体感を味わったりして、それを求めて教師をめざす子が多いから(別にそれ自体は悪いことではないけどね)、けっこう、勝ち負け思考や敵味方思考を無邪気に広げる超熱心な(自分の家庭をまったく顧みないほど超熱心な)先生が多いような気がする。…で、けっこう、こういう先生の態度は、将来先生になる愛弟子に、再生産される。
 それから、そういう人たちって、おうおうにして「プライド」にこだわる。…自称「練習だけは日本一」の部活が全国に大量にあるのは、ある意味その一例。なんか、自分たちがすごくないといけないんだよね。で、おうおうにして、他の人たちを見下すんだよね。

 ちなみに部活だけじゃない。進学校の先生は、自分の生徒が他の生徒に勝って志望校に合格して一緒に感動することをめざすし、実業校の先生は、自分の生徒が他の生徒に勝って就職を勝ちとって一緒に感動することをめざす。けっこう、自分の生徒だけに、スペシャルな、ほんといろんな意味でスペシャルな、方法を工夫しようとしたりしてまで。で、この子が喜ぶ分、泣く子もいるとか、あんまり考えないし、世の中全体として、どういう子がどういうところに本来行くべきかとか、あんまり考えない。これもスポーツ的な勝ち負け思考、敵味方思考じゃないかな、と思う。

 もちろん、これらは極端なモデルを描き出しただけだけどね。

 あと、それから、最近は、巨大スポーツの応援の非日常的な体験に昂揚感を見出して、その感覚を他の場面にも求めたがる人も多い気がするし。