転載 (みをつくし語りつくし)勝部麗子さん:5

 第5回です。物語としては、この回の登録なしでも読めた部分が大きなクライマックスかなと思います。まずは、その部分の転載です。記事が掲載されていたURLは記録していませんでした。

(追記)この記事を紹介しているページに画像ファイルがあったので、下にそのURLを付け足します。
http://www.access-town.com/image/free/20161019121753.jpg

神田誠司 2016年10月19日12時22分
■コミュニティーソーシャルワーカー
■疲れ果て「仕事やめる」
 すこし個人的な話をします。小学校区のボランティア活動を強化する「小地域福祉ネットワーク活動」への協力を呼びかけて、地域を回り始めた1996年当時、私の子どもは0歳、3歳、5歳で、手がかかる時期でした。
 近くの保育所に空きがなかったので、隣接する池田市も含めて3カ所の保育所に預けていて、送り迎えだけでも大変でした。
 一方、ネットワーク活動への協力を呼びかける地域の会合は、ほとんどが土日か、平日の夜に開かれていたので、夕方にいったん仕事を終えて子どもを保育所に迎えに行き、家でご飯を食べさせてから夜の会合に出席するということもしばしばでした。
 ある日の夕方、保育所に迎えに行って、3人を乗せて自宅に帰る車の中で、「お母さん、もう仕事やめようと思うわ」って言ったことがあるんですね。
 地域の会合で協力を呼びかけても、「そんな人たちの世話まで住民に言われても困る」「自己責任じゃないのか」といわれて、私の思い描いている地域の助け合いは本当に実現するんだろうかと思うこともあったし、こんな可愛い子どもとの時間を犠牲にしてまでする仕事なんやろかって思ったりして。いろんな感情がたまって、噴き出した感じで。とにかく疲れ果てていました。
 すると、2番目の3歳だった息子が言ったんです。「お母さんが仕事やめたら、さみしいと思う人が増えると思うよ」って。
 日頃、「お母さん、どんな仕事してるの?」って聞くので、「一人で住んでるおじいちゃんやおばあちゃんがさみしくないように、みんなでご飯を食べたり。そんな仕事してるんやで」とか話してたからだと思うんですけど。その次男の言葉を聞いた途端、涙があふれ出して、私は号泣してしまいました。
■ひとりぼっちにしない
 「お母さん、もう仕事やめようと思う」って話したとき、3歳だった次男に「お母さんが仕事やめたら、さみしいと思う人が増えると思う」って言われて、ハタと気づいたことがありました。

以下、登録しなければ読めない部分の要約です。

●息子の言葉を聞いて、自分はひとりぼっちをつくらない仕事をしているということに気がついた(自宅でお年寄りの介護をしている人たちをつなぐ、障害者の作業所の共同店舗をつくる、ボランティア活動を強化して高齢者の見守り活動をする)

●同時に、こんな子どもたちといる大切な時間を犠牲にしてまで働いてるんやから、仕事は立派にせなあかんとも思った

●その後も何度もやめたいと思ったが、あの時の息子の言葉があったから、今まで乗り切ってこれたのかもしれない

●小学校区ごとの「小地域福祉ネットワーク活動」は、徐々に広がり、2001年にやっと市内全域で取り組まれるようになった

●様々なボランティア活動がスタートしたが、それにより地域に埋もれていたいろいろな課題が見えてきた

●小地域福祉ネットワーク活動のスタートにより地域の課題発見力があがり、これで大丈夫だと思ったが、あらたな壁にぶちあたった

●解決が難しい問題が多く見つかり、「一生懸命ボランティアやっても、なんにも解決せえへんし、忙しくなるだけや」という住民の声が聞こえてくるようになった

●ちょうどその頃に大阪府の地域福祉支援計画の策定委員になった

●話し合いで、「住民と一緒に問題の解決を目指す専門職がどうしても必要だ」ということを一番に訴えた

●他の委員からの賛同を得て「コミュニティーソーシャルワーカー」(CSW)が誕生する

●住民が問題を発見し、福祉専門職のCSWと住民が手を携えて解決をめざす仕組みが初めてできた

転載 (みをつくし語りつくし)勝部麗子さん:4

 第4回です。まずは、登録なしで読めたところまでの転載です。

http://digital.asahi.com/articles/ASJ7V4W3KJ7VPLZU00L.html?rm=889

(追記)この記事を紹介しているページに画像ファイルがあったので、下にそのURLを付け足します。
http://www.access-town.com/image/free/20161017092824.jpg

神田誠司
2016年10月13日12時26分
■コミュニティーソーシャルワーカー
■「なかま」共生の拠点
 どうして共同作業所でつくった商品を並べ、障害のある人たち自らが売る共同店舗をつくりたかったのか。理由はいくつかあります。
 一つ目は活動の「見える化」です。地域に出て行くことで、共に生きる社会を多くの人が考えるきっかけになるし、障害者にとっても地域とのつながりを取り戻す機会になると思ったのです。
 二つ目は、バラバラだった作業所の連携です。一緒に店を運営して横のつながりができれば、悩みを共有したり情報交換したりできる。そして三つ目が恒常的な販売場所の提供でした。
 開店に向けて、私たちは市内に46あった作業所に「利用者やスタッフ、保護者が交代で店の当番をする」という条件で参加を呼びかけて歩き、最終的には全作業所が参加してくれました。
 店舗は、運良く商店街の市場の中に6坪ほどの店を借りることができ、1992年9月に福祉の店「なかま」がオープンしました。障害者の店がくることに最初は戸惑っていた隣の店の人が応援団になってくれたり、自分がつくったものを買ってくれる人とじかに接することで作業に一層熱が入るようになった人がいたり、うれしい変化がいろいろありました。
 ところが開店から2年4カ月後に起きた阪神・淡路大震災で店も大きな被害を受け、やむなく閉店します。でも「なかまの灯を消すな」という声は強く、2001年7月に阪急豊中駅のビル内の今の場所で再オープンしました。
 その後、豊中には全国モデルにもなっている、資源ゴミを手作業で分別する「株式会社きると」ができるなど、障害者雇用の場は当時よりも広がっています。
 でも、「なかま」は今も障害者支援のよりどころ、共に生きるまちの拠点として、豊中に無くてはならない存在になっています。
■震災、ご近所の力実感
 1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災で、豊中市は家屋の全半壊が1万5千世帯を超え、府内では最も甚大な被害を受けました。
 倒壊した家屋の下敷きになって助け出された方もたくさんいらっしゃいます。そのときに力を発揮したのがご近所のチカラでした。

以下、登録しないと読めない部分の要約です。

●震災では普段からの人と人とのつながりが命を守ると実感したが、救出活動に地域によって差が出た

●震災の3年ほど前から、小学校区ごとにボランティア部会をつくってもらう呼びかけをしており、震災までに41校区中4校区に部会がつくられていた

●部会がある校区ではあらかじめ一人暮らしのお年寄りや寝たきりの人がどこにいるか分かっていたので、直後に、組織的に安否確認と救出活動ができた

●他の地域では知り合いを中心にしか助けられなかった

●顔がつながっていることが命を守ることに直結すると思い、命を守ることのできる地域づくりに取り組みはじめた

●いざというときに取りこぼされる人がでないように、意図的につながりをつくるしかないということで、小学校区ごとのボランティア活動の強化に取り組んだ(高齢者が気軽に集まれるサロンを開く、一人暮らしの高齢者や障碍者の見守り活動をする)

●それは「困った人がいたら助ける」から「困った人を見つけて助ける」への活動の進化の試みだった

●しかし、住民の理解がなかなか得られなかった

豊中には38の「校区福祉委員会」があり、「敬老の集い」や「もちつき大会」などをおこなっていたが、その役員たちからは、ネットワークはもともとあるんやと言われた

●私たちが小地域福祉ネットワーク活動を広げようとしたのには、75歳以上のアンケートで「1カ月間、だれともしゃべっていない」と回答した人が15%もいたことなどがあった

●孤立しがちな人たちを見守り、支え合う地域を作りませんかと呼びかけても、そんな人たちの世話まで住民に言われても困るという意見もあった

●よびかけ始めてから、38の「校区福祉委員会」すべてで福祉ネットワーク活動が始まるまでに5年もかかった

●しかし、この5年間の間に協力者が増えたことが大きな財産になっている

●いま、豊中には小学校区で100〜200人、全市で約8千人の住民ボランティアがおり、それが全国から注目をあつめる地域福祉のチカラの源泉になっている

転載 (みをつくし語りつくし)勝部麗子さん:3

 第3回です。まずは、登録なしで読めたところまでの転載です。記事が掲載されていたURLは記録していませんでした。

(追記)この記事を紹介しているページに画像ファイルがあったので、下にそのURLを付け足します。
http://www.access-town.com/image/free/20161005151329.jpg

神田誠司 2016年10月6日11時28分
■コミュニティーソーシャルワーカー
■ひとり助けることから
 ひとりの高齢者が階段を下りられないというので、購入した階段昇降機の貸し出しを始めるとボランティアセンターには依頼が相次ぐようになりました。解決策が示されないとニーズは埋もれたままです。でも、階段昇降機という解決策があると分かると、あちこちから「助けてほしい」と声が上がったんです。
 このとき実感したのは、目の前のひとりの人を助けることが、同じことで苦しんでいるたくさんの人を助けることにつながるんだということでした。
 言い換えれば、「ひとりの課題はみんなの課題」ということです。現在やっているコミュニティーソーシャルワーカーという仕事の原点です。社協に入って2年目。1988年の話です。
 もう一つ同じような事例があります。それは、車いすに乗ったまま乗り降りできるリフト付き自動車を導入したことです。
 これも、ひとりの車いすを利用している方の問いかけがきっかけでした。
 「車いすの人間が急病になったら救急車が病院まで運んでくれる。なら、帰りはどうするか知ってるか」。考え込んでいると、「葬儀屋さんに頼んで、寝台車に迎えに来てもらうんやで」と教えてくれました。
 当時はリフト付きタクシーなんてありません。だから寝台車しかなかったんですけど、私たちはまったく知りませんでした。このときは助成金をいただいて購入しました。市民から愛称を募って「ユゥーあい号」と名付け、運行を始めます。91年4月のことです。
 ユゥーあい号は、病院への送迎などで大活躍しました。このリフト付き自動車の貸し出し事業はその後、全国各地に広がりました。ひとりを助けることが、たくさんの人を助けることにつながる。確信を深めていきました。
■交流会、設けたけれど
 1987年春、豊中市社協に入ってすぐにボランティアセンターの立ち上げを命じられましたけど、同時期に取り組んだことがあります。それは家で老人を介護している家族の実態調査でした。
 当時、豊中市には特別養護老人ホームもなく、デイサービスも始まっていません。家庭で介護している方の実態が全く分かっていませんでした。その調査を新人の私に任されました。
 介護を受けている高齢者の健康状態、介護している方の続き柄、どんなサービスを受けているかといったアンケートの調査票をつくる際、私にはどうしても入れたい質問がありました。

以下、登録しなければ読めない部分の要約です。

●調査票に、介護している人同士の交流会が必要かという質問を入れた

●500人にアンケートを配り、80人の人から交流会が必要だという回答を得た

●いざ交流会を開くと、1回目は13人、2回目は8人の参加者しかいなかった

●2回目の交流会で、次の交流会まで間を開けようかと問うと、出席者の一人から、せっかく開けたと思ったトンネルの出口を閉ざしてしまわないでという言葉が返ってきた

●ハッと我に返り、会自体は有意義なこと、介護している人が参加したくてもできないほど忙しいことは分かっているのに、参加人数だけで「出口」を閉ざそうとした自分は誰のために仕事をしているんだと思った

●交流会は、「老人介護者(家族)の会」の発足へとつながった

豊中市は障害児教育で知られ、統合教育をいち早く取り入れていた

●しかし、義務教育後の進路は、親御さんがお金を出し合ってつくった共同作業所しかなく、中学まで地域のなかで育った子たちの地域とのつながりが、卒業後に絶たれてしまう状況があった

●なにかできることはないかと話しているところにライオンズクラブから300万円の寄付の話が舞い込み、作業所の商品を並べて障害を持つ人が売る、共同販売所をつくろうということになった

転載 (みをつくし語りつくし)勝部麗子さん:2

 第2回です。まずは、登録なしで読めたところまでの転載です。コピペし忘れたようで、記事の日付と署名はありません。

http://digital.asahi.com/articles/ASJ7V4HN5J7VPLZU00B.html?rm=852

(追記)この記事を紹介しているページに画像ファイルがあったので、下にそのURLを付け足します。
http://www.access-town.com/image/free/20160927091500.jpg

■コミュニティーソーシャルワーカー
■無念さ・無力感で涙
 福祉事務所は「最後のセーフティーネット」と言われる生活保護を取り扱うところです。大学を卒業したら福祉の道に進もうと考えていた私は「福祉事務所なら全ての人を支えることができる。社会保障の最後のとりでだ」と信じていました。
現場を知ろうと、大学3回生のとき、大阪市内の福祉事務所で2週間ほど実習させてもらいました。生活保護の相談や申請の窓口業務を見せてもらったり、行き倒れて病院に運ばれて入院している人のもとにうかがって話を聞いて生活保護手続きの手伝いをさせてもらったりして。
 ところが、その福祉事務所では、住まいがない人は生活保護の対象にしていませんでした。それに65歳以上でなければ、高齢者サービスの対象にもなりません。いくら職員が「助けたい」と思ったとしても、「制度に当てはまらないから」と断らざるをえなかったのです。
 必死の思いで窓口を訪ねてきた人が肩を落として帰って行く姿を何度も目にしました。「社会保障の最後のとりでだ」と信じていた私にとって、福祉事務所の実態はショックでした。
 目の前に支援を求めている人がいっぱいいるのに、支えることができない。その無念さや無力感が募って、実習が始まって10日目くらいから涙が止まらなくなってしまいました。
 制度に当てはまらない人たちをどうやって支えたらええんやろう。思いあぐねているとき、社会福祉協議会の存在を知りました。
 調べてみると、誰もが安心して暮らせる地域をめざして、課題解決のために住民主体で事業を企画、実施する組織だと書いてあって。
 「これや!」と思いました。誰もが安心して暮らせる地域をつくる仕事がある。ようやく進む道が見つかった思いでした。
■ボランティア拠点作り
1987年春。大学を卒業した私は、誰もが安心して暮らせる地域をつくる仕事ができると期待に胸をふくらませて豊中市社協に就職しました。でも当時は社会福祉法人になってまだ5年目で、よちよち歩きの組織でした。

残りの会員登録が必要な部分の要約は次の通りです。

社協では、新人の年からいきなり、ボランティアセンターの立ち上げをまかされた

●ボランティアが30人しかいない状態で、公報で、ボランティアを派遣しますから困りごとがあれば連絡をくださいと呼びかけることからはじめた

養護学校の児童の母親から、お金を貯めたいので共働きをしたいが、帰りの迎えができないので代わりにしてほしいという依頼がきたことがあり、お金を稼ぎたい人のためにボランティアを派遣していいのか悩んだ

●ボランティアの人たちが、やってみたらええんやないかと言い、やってみることにした

●ボランティアが何をして、何をやらないかは、住民自身が決めるべきじゃないかと思い、それからは住民主体で運用してもらっている

脳梗塞の後遺症で動けない夫を、5階建てマンションから下してほしいという依頼があったことがきっかけで、階段昇降機を購入した

●階段昇降機というものがあることは、運送会社で働いていたボランティアが教えてくれた

●夫婦の感謝する様子に本当によかったと思った

●階段昇降機の貸し出しの依頼があちこちからきた

転載 (みをつくし語りつくし)勝部麗子さん:1

 朝日新聞が、「コミュニティーソーシャルワーカー」の勝部麗子さんという人について、10回にわたる、とてもよい連載をしたことがあります。しかし、残念ながらそれは、web版では会員登録をしなければ、途中までしか読むことができないものでした。また、今では掲載期間も終わってしまっています。

 そこで、せっかくなので、私がテキスト化して保存していたものから、会員登録なしで読めたところまでの転載と、それより後の部分の要約とをしていけたらと思います。

 では、まずは第1回です。第1回については、私の記録がまちがっていなければ、記事全体が公開されていたのではないかと思います。いちおう、掲載期間中のURLは次のものでした。

http://digital.asahi.com/articles/ASJ8M3VLPJ8MPLZU005.html?_requesturl=articles/ASJ8M3VLPJ8MPLZU005.html

(追記)この記事を紹介しているページに画像ファイルがあったので、下にそのURLを付け足します。
http://www.access-town.com/image/free/20160921093608.jpg

(みをつくし語りつくし)勝部麗子さん:1
神田誠司
2016年9月26日16時31分
■コミュニティーソーシャルワーカー
■「困った人」は困っている
 2年前にNHKで放映された「サイレント・プア」というドラマをご存じでしょうか。社会福祉協議会で働く「コミュニティーソーシャルワーカー」の主人公を深田恭子さんが演じました。
 舞台は東京・下町の社協という設定でしたが、ドラマに出てくるエピソードは、豊中市社協が実際にかかわったケースが下敷きになっています。ドラマの監修もしたので、主人公のモデルは私だとみんな思っているようです。
 でも、ドラマをご覧になっていない方には、コミュニティーソーシャルワーカーがどんな仕事か、分かってもらえないかも知れません。
 ドラマの中にも出てきましたが、私たちの受ける相談の一つに「ごみ屋敷」の解決があります。ゴミをため込んでしまう、ごみ屋敷の住人は「困った人」と近隣の人から思われがちです。
 でも、実際に話をうかがうと、病気になったり、高齢で足腰が弱って重いものが運べなくなったり、生きる気力を無くしたりしている方が大半です。「困った人」と思われている人は、実は「困っている人」なんです。
 豊中市では、コミュニティーソーシャルワーカーが中心になって、住民ボランティアと一緒にごみの片付けを手伝います。そして困っていることの相談にのり、地域の中で孤立しないように住民とともに支援します。そうやって400件近くを解決してきました。
 最近、問題になってきたひきこもりの人たちの支援もコミュニティーソーシャルワーカーの仕事です。
 いじめだったり、大学受験の失敗だったり、リストラだったり、人生のどこかでつまずいて、家にこもってしまった人たちです。親御さんもどこに相談したらいいのか分からず、5年、10年とたって。私が支援させていただいた中には30年という方もいました。
 私たちは、そうした方が再び社会とつながる手伝いをします。外に居場所をつくって就労体験をしてもらい、就職にまで結びついた方が40人近くいらっしゃいます。
 でも、お気づきでしょうか。ごみ屋敷もひきこもりも、既存の制度や法律だけでは解決することのできない、いわば「制度のはざま」の問題です。コミュニティーソーシャルワーカーはこうした「制度のはざま」の問題を住民と一緒に発見し、解決するために大阪府が全国に先駆けてつくった専門職です。
 いま申し上げた「住民と一緒に」というのが大切です。「制度のはざま」で困窮している人は自分から「助けて」と声をあげません。誰かが「ここに、こんな人がいる」と気づかなければ支援の手は届かない。豊中でその役割を担っているのが、住民の皆さんです。
 高齢者や障害がある方への日常的な見守りや、「福祉なんでも相談」などを通して、地域で困っている方を発見し、私たちにつないでくれることで、初めて支援の歯車が動き出します。
 豊中には、そうした活動をしてくれるボランティアが各小学校区に100人から200人、全市だと約8千人いてくれます。この人たち抜きでコミュニティーソーシャルワーカーの仕事はとても立ちゆきません。
 人口約40万人の豊中市は、大阪のベッドタウンとして発展した市です。転勤族も多く、自治会の加入率は5割を切っています。そんな市で、なぜ多くの住民がボランティアに参加してくれるのか。助け合いのできる地域を、どうやって住民と一緒につくってきたかを、お話しできればと思います。
 私は、豊中市で生まれ育ちました。大学まで教師を目指しましたが、あることをきっかけに福祉志望に転じ、29年前に市社協に入職しました。この間、いろんな人たちと出会いました。まず次回は、小学生のときに社会に目を開かせてくれて大好きだった女先生のことからはじめようと思います。
     ◇
 かつべ・れいこ 豊中市生まれ。1987年に豊中市社会福祉協議会に入職。2004年にコミュニティーソーシャルワーカーになる。ごみ屋敷など「制度のはざま」への取り組みが認められ、同社協は09年度の「日本地域福祉学会 地域福祉優秀実践賞」を受ける。厚生労働省社会保障審議会の特別部会委員として、15年施行の生活困窮者自立支援法策定にかかわる。NHKドラマ「サイレント・プア」のモデルになり、監修を務めた。「プロフェッショナル 仕事の流儀」にも出演。今年4月から同社協福祉推進室長。

ジーパン先生の教え
 小学校3、4年のときに担任をしてくれた先生の話をします。すごく大好きな女の先生でした。
 新卒で赴任してこられたんですけど、まず私たちが驚いたのはジーパン姿だったこと。1970年代ですけど、あのころって先生は服装もきちっとしてましたよね。男性なら背広、女性ならスカートが普通だったから新鮮で、クラスの男子も女子も突然、ジーパンで登校し始めました。
 授業も、とにかく型破りでした。黒板に大きな文字で「働くとはなにか」とか書き始めて。生徒にしたら「えっ、何」っていう感じですよね。ほかにも「男らしさ、女らしさとはなにか」とか。それで生徒に答えさせて授業を進めるスタイルで、まるで「白熱教室」みたいでした。
 「男らしさ女らしさ」の授業でいえば、「男は力が強い」と男子が答えたりするんですけど、先生は「男やから泣いたらあかんっていうけど、なんでやろ」「女のくせにえらそうにすな、とかいうけど、なんでやろ」と問いかけるんですね。
 結論は「男とか女とか関係ない。自分らしさでええんや」っていうことなんですけど、今思えば、ものの見方とか考え方とかの基礎を教わった気がします。
 あと、自分たちのまちを知ろうと、教室を飛び出して町工場にヒアリングに行って、仕事について話を聞かせてもらったこともありました。今でこそ生活科もできて、校外学習は当たり前になっていますけど、あの当時は珍しくて楽しかったな。公害の問題なんかも授業でよく話してくれて。社会に目を開かせてくれた先生でした。いまも尊敬しています。
 私は、大学の途中まで教員を志望していました。それも先生の影響があったと思います。でも、あることをきっかけに、私は福祉の道を目指すようになります。
■教育実習で貧困知る
 将来は学校の先生になろうと思っていた私は、大学3回生の春、中学校に教育実習にいきました。ところが、そこで出会った子どもたちが、私の進路を変えてしまうことになります。
 クラスにいつも遅刻をしてくる子がいました。授業中、机につっぷして寝てる子や、毎日のように忘れ物をしてくる子もたくさんいました。私は実習生で、年齢も子どもたちと近いので、授業のあとで聞いてみた。「なんで遅刻するん?」って。
 するとその女の子は「うちのお母ちゃん、朝まで仕事してんねん。そやから起こしてもらわれへんし、遅れてしまうねん」っていうんです。お母さんはシングルマザーで子どもを育てるために頑張って朝方まで飲食店で働いてたんですね。
 忘れ物をしてくる男の子は「兄弟が多くて、自分の机もないし、家が散らかってて、どこに何があるかわからへんねん」と話しました。今でいう、ごみ屋敷のような状態になっていたんじゃないかと思います。
 教育は子どもたちを幸せにするためにある。でも、学習以前というか、スタートラインにすら立てない子どもがたくさんいる事実は、二十歳を過ぎたばかりの私にはショックでした。親や家庭の生活のしんどさが横たわっていて、子ども自身ではどうすることもできない。今でいう「子どもの貧困」です。
 でも学校の先生は忙しすぎて、一人ひとりの子どもの生活を支援することまでは手が回らない。だったら、この子たちを手助けするには、どうしたらいいんだろう。そう考えるようになったときに、そうや、福祉があるって思ったんですね。
 進路の選択肢として、福祉が急に浮上してきた感じでした。福祉の勉強に打ち込むようになったのはそれからのことです。
■釜ケ崎の「弱肉強食」
 大学3回生のとき、釜ケ崎で1カ月ほどアルバイトに通ったことがあります。将来は福祉の道にと決めていたので、状況が一番厳しい人たちを知っておきたいと思ったからです。
 朝8時ごろ、アルバイト先の西成労働福祉センターに出勤するんですけど、床や周辺には、たくさんのホームレスの人が寝ていました。お酒を飲んでいる人もいて。最初のころは「この人たちはどうして働かないんだろう」と思ってました。
 でも、私はなんにも分かってませんでした。それに気づかせてくれたのが、朝3時の釜ケ崎の光景です。
 辺りが暗いうちから労働福祉センターに、マイクロバスやワゴン車が次々と集まってきました。その日の仕事に必要な数の日雇い労働者を集めにきた建設会社や土木会社の車です。1980年代後半。関西空港開港に向けた建設ラッシュで仕事がたくさんあったころです。
 そのセンターには仕事を求める数千人の労働者たちが集まっていて、その中から体の大きい人や力のありそうな人、若い人が選ばれて、どんどん車に乗せられていくんですけど、高齢者や体の弱そうな人には声がかからずに取り残されていく。
 まさに「弱肉強食」の世界でした。その光景を目のあたりにしてやっとわかりました。朝8時ごろから寝ているおっちゃんたちは働くつもりがないんじゃなくて、こうやって取り残された人たちだったんやって。
 働きたくても、高齢だったり、体が弱かったりして仕事につけず、困窮する人たちをどう支援したらいいんやろと考えました。そのとき思いました。生活保護という制度がある。最後のセーフティーネットがあるやんって。
 でも当時の生活保護の実態は、私が考えていたようなものではありませんでした。(神田誠司)

「ヤバイ」とか、シャレになってない

この記事だけど、大任町の町政で起きたことを考えると、シャレになっていないでしょ。

今までにいくつもシャレにならないことが起きているのに、こんなパンフレットをつくることにしても、こんなのを「ふるさとパンフレット大賞の優秀賞」なんてのにすることにしても、それをのほほんと記事にすることにしても、そうしたセンスが「ヤバイ」でしょ。これを「チョイ悪」とかテキトーに言うのって、本当に悪い方向性に誘うようなことになりかねないことを、のさばらせるようなことだと思うけどね。ほんと、どうかしている。

『福岡・大任町、ヤバイぜ! チョイ悪?町長ら、パンフに』
中村幸基 2017年6月13日16時48分
http://www.asahi.com/articles/ASK692BZWK69TGPB003.html

渋めのスーツやシックなドレスに身を包み、ハードボイルドタッチにポーズを決める面々。ハリウッド映画風の背景に踊る文字は「ヤバイぜ!」――。福岡県大任町の作った観光PRパンフレットが、役所仕事らしからぬエッジの効いた切り口で話題を呼んでいる。モデルは町三役や若手職員たち。ふるさとパンフレット大賞の優秀賞に輝いた。

B5判の横型で12ページ。県外の人に大任を知ってもらい、訪れてもらおうと町産業経済課がデザイン事務所「TONE GRAPHICS」(飯塚市)と組んで知恵を絞った。

表紙をめくると、行政の刊行物にありがちな首長の「あいさつ文」はなく、「おおとう町の“ヤバイ”をこっそり教えます」の大文字。顔半分のモノクロ写真でにらみを利かせるのが永原譲二町長だ。

このパンフ、ジョージ・クルーニーブラッド・ピットジュリア・ロバーツら豪華俳優陣による『オーシャンズ』シリーズをイメージした。クルーニー扮するオーシャンと仲間たちが大泥棒を働く物語。フランク・シナトラ主演の『オーシャンと十一人の仲間』のリメイク版だ。

ルーニーと永原町長が同じ「ジョージ=譲二」というところも隠しネタだが、マニアック過ぎてネタバレしても、わからない。

次のページでは花束を手にした浦野幸治副町長が花いっぱいの町を「ダンディー」にPR。若手職員らも負けじと、道の駅おおとう桜街道など観光スポットやニンニク球など特産品を「クール」に、「スキャンダラス」に、紹介する。

モデルは三役と若手職員、商工…

「左派・リベラルによる愚民扱い」について(メモ)

今では必ずしも多くはないと思うけど、政治ブログ界隈でよく見られるループに、「左派・リベラルによる愚民扱い」云々があるよね。*1

今さらだけど、これについて少し、考えていくべき方向性みたいなものをメモしておきたいと思う。って、そういやこのブログの初期にこんなエントリー↓もあげたっけ。

左翼とか人権派とか

これは、そこでコメントしてくださった人の言葉を借りれば、

>あなたは、安全なところにいて、煽ってないか?

みたいに要約できてしまうような内容だったかな?

今回メモしたいのは、次のことをどう考えていこうかということ。次のことを、うまく認識できるようになりたいし、うまく説明できるようになりたいよねということ。

有権者は「騙されている」訳ではないよね

●各人の政治的判断におけるエゴ‐博愛の重要度の違いの源泉は?

●政治判断における「脅威」意識の問題*2
(なにを脅威と感じるか/脅威を訴えることの必要性‐弊害)

*1:このエントリーをあげる気になったのは、Everyone says I love you! 宮武嶺の『憲法9条に自衛隊を書き込むのはこれだけ危険だ。国旗国歌法の教訓を思い出せ。』という記事のコメント欄を見ていて、なんだかなぁと思ったからなんだけどね――「永久退去処分」を受けているのでコメントできないし。

*2:これは実は、前回のエントリーを書くような顛末になった、Everyone says I love you! 宮武嶺の記事のコメント欄でのやりとりについて考えていて、重要な観点なのかなと思ったこと。それを言うと、上の2つ目のエゴ‐博愛の観点も、実はそこでのやりとりに関連することだけど。