転載 (みをつくし語りつくし)勝部麗子さん:3

 第3回です。まずは、登録なしで読めたところまでの転載です。記事が掲載されていたURLは記録していませんでした。

(追記)この記事を紹介しているページに画像ファイルがあったので、下にそのURLを付け足します。
http://www.access-town.com/image/free/20161005151329.jpg

神田誠司 2016年10月6日11時28分
■コミュニティーソーシャルワーカー
■ひとり助けることから
 ひとりの高齢者が階段を下りられないというので、購入した階段昇降機の貸し出しを始めるとボランティアセンターには依頼が相次ぐようになりました。解決策が示されないとニーズは埋もれたままです。でも、階段昇降機という解決策があると分かると、あちこちから「助けてほしい」と声が上がったんです。
 このとき実感したのは、目の前のひとりの人を助けることが、同じことで苦しんでいるたくさんの人を助けることにつながるんだということでした。
 言い換えれば、「ひとりの課題はみんなの課題」ということです。現在やっているコミュニティーソーシャルワーカーという仕事の原点です。社協に入って2年目。1988年の話です。
 もう一つ同じような事例があります。それは、車いすに乗ったまま乗り降りできるリフト付き自動車を導入したことです。
 これも、ひとりの車いすを利用している方の問いかけがきっかけでした。
 「車いすの人間が急病になったら救急車が病院まで運んでくれる。なら、帰りはどうするか知ってるか」。考え込んでいると、「葬儀屋さんに頼んで、寝台車に迎えに来てもらうんやで」と教えてくれました。
 当時はリフト付きタクシーなんてありません。だから寝台車しかなかったんですけど、私たちはまったく知りませんでした。このときは助成金をいただいて購入しました。市民から愛称を募って「ユゥーあい号」と名付け、運行を始めます。91年4月のことです。
 ユゥーあい号は、病院への送迎などで大活躍しました。このリフト付き自動車の貸し出し事業はその後、全国各地に広がりました。ひとりを助けることが、たくさんの人を助けることにつながる。確信を深めていきました。
■交流会、設けたけれど
 1987年春、豊中市社協に入ってすぐにボランティアセンターの立ち上げを命じられましたけど、同時期に取り組んだことがあります。それは家で老人を介護している家族の実態調査でした。
 当時、豊中市には特別養護老人ホームもなく、デイサービスも始まっていません。家庭で介護している方の実態が全く分かっていませんでした。その調査を新人の私に任されました。
 介護を受けている高齢者の健康状態、介護している方の続き柄、どんなサービスを受けているかといったアンケートの調査票をつくる際、私にはどうしても入れたい質問がありました。

以下、登録しなければ読めない部分の要約です。

●調査票に、介護している人同士の交流会が必要かという質問を入れた

●500人にアンケートを配り、80人の人から交流会が必要だという回答を得た

●いざ交流会を開くと、1回目は13人、2回目は8人の参加者しかいなかった

●2回目の交流会で、次の交流会まで間を開けようかと問うと、出席者の一人から、せっかく開けたと思ったトンネルの出口を閉ざしてしまわないでという言葉が返ってきた

●ハッと我に返り、会自体は有意義なこと、介護している人が参加したくてもできないほど忙しいことは分かっているのに、参加人数だけで「出口」を閉ざそうとした自分は誰のために仕事をしているんだと思った

●交流会は、「老人介護者(家族)の会」の発足へとつながった

豊中市は障害児教育で知られ、統合教育をいち早く取り入れていた

●しかし、義務教育後の進路は、親御さんがお金を出し合ってつくった共同作業所しかなく、中学まで地域のなかで育った子たちの地域とのつながりが、卒業後に絶たれてしまう状況があった

●なにかできることはないかと話しているところにライオンズクラブから300万円の寄付の話が舞い込み、作業所の商品を並べて障害を持つ人が売る、共同販売所をつくろうということになった