「左派・リベラルによる愚民扱い」について(メモ)

今では必ずしも多くはないと思うけど、政治ブログ界隈でよく見られるループに、「左派・リベラルによる愚民扱い」云々があるよね。*1

今さらだけど、これについて少し、考えていくべき方向性みたいなものをメモしておきたいと思う。って、そういやこのブログの初期にこんなエントリー↓もあげたっけ。

左翼とか人権派とか

これは、そこでコメントしてくださった人の言葉を借りれば、

>あなたは、安全なところにいて、煽ってないか?

みたいに要約できてしまうような内容だったかな?

今回メモしたいのは、次のことをどう考えていこうかということ。次のことを、うまく認識できるようになりたいし、うまく説明できるようになりたいよねということ。

有権者は「騙されている」訳ではないよね

●各人の政治的判断におけるエゴ‐博愛の重要度の違いの源泉は?

●政治判断における「脅威」意識の問題*2
(なにを脅威と感じるか/脅威を訴えることの必要性‐弊害)

*1:このエントリーをあげる気になったのは、Everyone says I love you! 宮武嶺の『憲法9条に自衛隊を書き込むのはこれだけ危険だ。国旗国歌法の教訓を思い出せ。』という記事のコメント欄を見ていて、なんだかなぁと思ったからなんだけどね――「永久退去処分」を受けているのでコメントできないし。

*2:これは実は、前回のエントリーを書くような顛末になった、Everyone says I love you! 宮武嶺の記事のコメント欄でのやりとりについて考えていて、重要な観点なのかなと思ったこと。それを言うと、上の2つ目のエゴ‐博愛の観点も、実はそこでのやりとりに関連することだけど。