本日、アフガニスタンのジャララバードで、ペシャワール会の中村哲さんが何者かに銃撃され、同行の運転手らとともに亡くなった。私が生まれ育った福岡の出身ということもあり、人道的な活動をしている人として真っ先に思い浮かべる人が中村さんだった。その中村さんがこのような形で亡くなったことにショックを受けている。この死を嘆き、悲しんでいる。
アフガニスタンに関する報道で一番印象に残っているのは、あの9.11テロの後、映画『カンダハール』で注目されたモフセン・マフマルバフ監督が、『クローズアップ現代』でインタビューを受けた時のことだ。国谷裕子アナウンサー自身も、マフマルバフ監督のことを彼女がインタビューをした人のなかでも特に印象に残った人としてあげている。
――そのほかにも印象に残っている方はいらっしゃいますか?
イランの映画監督で、モフセン・マフマルバフさんにお会いしました。当時、アフガニスタンにこだわって映画づくりをされていたのですが、その時の言葉が今でもとても印象に残っています。
――それはどんな言葉だったのでしょうか?
彼は映画制作以外にも、アフガニスタンで学校を建てたり、教育のNGOのような活動もされていました。教室に入れない子どもが、少しでも学ぼうとして、教室の外で耳をそばだてて聴いているその姿に胸を打たれ、それこそがアフガニスタンの希望だと話されていました。そして番組の最後に、彼がユニセフで行った有名なスピーチを涙ながらに語ったときに、私も思わずもらい泣きしてしまいました。言葉の持つ重み、あるいは思いの深さというのは本当に伝わるのだと、とても心に響いたインタビューでしたね。モフセン・マフマルバフ監督の出演回
2002年1月16日(水)放送
アフガニスタン “悲しみ”を撮る
引用文中の「彼がユニセフで行った有名なスピーチ」については、ユニセフで検索しても見つけることができず、ユネスコではないかと思われるものを、次のブログで見つけることができた。
監督のモフセン・マフマルバフは、2001年ユネスコ<フェデリコ・フェリーニ>メダルの授賞記念スピーチ(2001年10月)で次のように語っています。
「アメリカでの9月11日の事件が起こるまで、アフガニスタンは忘れられた国でした。今でさえも、アフガニスタンに向けられる関心は、そのほとんどが人道的なものではないのです。
もしも過去の25年間、権力が人びとの頭上に降らせていたのがミサイルではなく書物であったなら、無知や部族主義やテロリズムがこの地にはびこる余地はなかったでしょう。もしも人びとの足もとに埋められたのが地雷ではなく小麦の種であったなら、数百万のアフガン人が死と難民への道を辿らずにすんだことでしよう」
(「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない 恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」現代企画室刊より)
中村さんの話に戻ると、wikipediaには、
中村は当初、主にハンセン病の治療に取り組んでいたが、2000年の大干ばつ時の赤痢患者急増をきっかけに、清潔な飲料水の確保にも取り組むようになった。また、自給自足が可能な農村の回復を目指し、農業事業にも取り組んでいる。
とある。つまり、マフマルバフ監督が「忘れられた国」と語ったアフガニスタンで、中村さんは、ひっそりと、まさしく「小麦の種」をまくような活動を始めていたのだ。その後その活動は本格化し、信じられないような偉業となった。いっぽう、そのなかで、若いスタッフである伊藤和也さんが拉致され、殺害されるという悲劇があった。しかし、それでも中村さんは、アフガニスタンのために活動を継続していたのだ。再びアフガニスタンが「忘れられた国」になろうとしているなかで。
中村さんの死をきっかけに、せめて私たちは、私たちが忘れてはならないことがあるのだということを、心に刻まなければならないと思う。
追記:
中村さんのドキュメンタリーの再放送が、追悼番組としてEテレであります。
2019年12月7日(土) 午後11時00分(60分)
2019年12月12日(木) 午前0時00分(60分)