読書メモ 阿部 彩 著『子どもの貧困――日本の不公平を考える』(岩波新書)

 

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 この本は、私たちを告発する本である。それは次のあとがきの冒頭部分を読めば分かるだろう。

 

 一九九八年二月、新宿駅西口の段ボール村が消滅した。つい数週間前まで、ここは寒さと危険から逃れてきた二〇〇人以上ものホームレスの人々が段ボール・ハウスで生活する「村」だった。新都心のど真ん中、都庁のお膝元にできたこの「村」は、バブル崩壊後の日本において「貧困」の存在を市民の目の前につきつけるものだった。行政による何度もの「強制撤去」の危機にも屈せず、最後の生きる場所を守ろうとする人々が必死の「闘争」を繰り広げていた。しかし、火災という不運と「自主撤廃」 というぎりぎりの選択肢に迫られて、ある日、村は忽然と消え去り、そこはフェンスで囲まれた無機質な空間にかわっていた。
 その不自然な空間を、通行人は何事もなかったかのように、振り向きもせずに通り過ぎていた。ここで多くの人が生活していたという事実は痕跡すら残されていなかった。こうして社会の底辺ながらも精一杯生きていた彼らの「生」は忘れられていった。
 「貧困」を「醜いもの」として見えないところに追いやり、「自己責任である」という説明で自らを納得させて意識の外にさえ排除してしまう社会。私は、そのフェンスの前に文字通り釘付けになり、動くことができなかった。私の貧困研究の発端は、ここにあるといってもよい。日本の貧困の現状について、多くの人が納得できるデータを作りたい。それが、私の研究テーマである。
 それから一〇年の時が流れ、このような本を出版させていただくことになった。その間、「格差社会」という言葉が当たり前のように使われるようになり、二〇〇八年に入ってからは「貧困」「ワーキング・プア」などという言葉もちらほら見かけるようになった。このことは、「貧困」が社会問題として認知されつつあるということを示しているのかもしれない。一方で、それだけ「貧困問題」が深刻になってきたということの表れでもあろう。しかし、「格差論争」がすでに下火になってきたことからも示唆されるように、「貧困論争」も実質的な政策の変換を伴わずに、一時的なブームで終わってしまう可能性もある。「格差」や「貧困」を、「上流」「下流」、「勝ち組」「負け組」といったラベル付けに象徴されるような、一種の「ゲーム」的な関心で語っているだけでは、「貧困」も「格差」も、新宿西口のホームレスの人々と同様に、いつのまにか「見えなく」なり、「語られなく」なるであろう。それは、「貧困」や「格差」が解消したからではなく、ただ単に、社会がそれを見ることにあきてしまい、見ることをやめたからである。
pp.245-246

 

 この本が出版されたのは2008年である。それから既に10年以上の時が経ち、その間に「政権交代」やあの震災があったりした。このあとがきを読んで、この間を振り返り、そして現状を思う時、この本は、今の私たちをこそ、さらに強く告発していると思えてくる。私たちは、やはりまだ、向き合うべきものに向き合う力を、身につけることができていないのだと。

 

 告発の本と書いたが、この本で試みられていることは、あくまでもデータによる貧困の可視化である。この本に書かれていることの大半が、データと、それに先立つ定義や調査方法の説明などである。よって、事務的で淡々とした記述が並ぶ本という印象さえ持たれることもあるのではないか。けれどもそれは、丁寧で誠実な態度だと思う。

 

 よって、この本で主題である「貧困」の定義ついて確認しておくことは、やはり大切なことだろう。この本では、次の「相対的貧困」が、「貧困」の定義として大半の部分で採用されている。

 

相対的貧困の定義
 実際に相対的貧困率はどのように計算されるのであろうか。
 OECDで用いられるのは、手取りの世帯所得(収入から税や社会保険料を差し引き、年金やそのほかの社会保障給付を加えた額)を世帯人数で調整し、その中央値(上から数えても、下から数えても真ん中、平均値でない点を留意されたい)の五〇%のラインを貧困基準とする方法である。気をつけていただきたいのは、「手取り」ということと、「世帯所得」ということである。つまり、その人が実際に使うことができるのは、収入ではなくて、そこから、税金や社会保険料を払い、その上に年金や児童手当など政府からもらえる金額を足した「手取り所得」である。税金や社会保険料負担が増加の一途を見せている今日では、「手取り」であるか、そうでないかは大きな違いになる。
 もう一つは、「世帯」で合算した所得をみる必要があるということである。近頃、マスメディアでは、勤労者の〇〇%が年収〇〇円以下であり「ワーキングプア」であるなどとの記述が多く見られるが、そういったデータの中には、専業主婦が夫の収入を補完するためにパートとして働いている人もいれば、子どもが自分のお小遣い稼ぎにアルバイトをしている場合も含まれる。人々の生活水準は、世帯全体の所得レベルで決まると考えると、厳密には、これらの人々は一概に「貧困」状況にあるとはいえないのである。
 貧困状況の定義に戻ろう。OECDは、その社会で一番標準的(中央値)の「手取り」の「世帯所得」の約半分以下の生活を「貧困」と定義している。この「五〇%」という数値は、絶対的なものではなく、四〇%や六〇%を用いる場合もある。EUは、公式の貧困基準のひとつに中央値の六〇%を用いている。
pp.44-45

 

 何を計測するか、どこで線引きするかにより、測れるもの/測れないものや恣意性の問題が生じる。それについては、次のように書かれている。

 

 重要なのは、 測定しようという姿勢である。線引きすることや、誤差を恐れて、貧困を測定することを躊躇していては、貧困はいつまでたっても「想定の産物」であり、貧困を政策議論の机上に載せるための第一歩が踏み出せないこととなる。
pp.47

 

 子どもの貧困率については、次のように定義されている。

 

 それでは、この相対的貧困を使って、子どもの貧困率を計算してみよう。まず、子ども(ここで言う子どもの定義は、二〇歳未満の非婚者。また、この定義に合致していても、その子が世帯主である場合は、親元から離れている学生などの可能性があり、親を含む世帯所得がわからないためサンプルから除外)の貧困率を、中年層(二〇~五九歳)、高齢層(六〇歳以降)と比較してみよう。
pp.51-52 

 

 さて、この本で示されたことで、とくに注目したいのは、次の4つである。

  • 日本の子どもの貧困率は高い
  • 日本では、政府による再分配後の方が、子どもの貧困率が高くなる
  • 日本の母子世帯の子どもの貧困率は、母親の就労率が高いのにもかかわらず、極めて高い
  • 日本は子どもの貧困に対して冷淡である

 以下、それぞれ該当部分を書き出していく。

 

日本の子どもの貧困率は高い

 

…二〇歳未満の子どもの貧困率は、最新の二〇〇四年のデータでは、一四・七%である。つまり、約七人に一人の子どもは貧困状態にあるということである。
 一九九〇年代にはいってから、子どもの貧困率は大きく上昇している。八九年の一二・九%から二〇〇一年の一五・二%へと上昇し、〇四年には若干減少して一四・七%となっているものの、その上昇率はどの年齢層よりも高い。同時期に、高齢者の貧困率は横ばいであるのに対して、子どもの貧困率が上昇していることは、この国の社会保障制度からの給付が高齢者に極端に偏っていることと無関係ではない。
pp.52

 

 図2-3は、一九八〇年代から二〇〇〇年代前半の先進諸国における子どもの貧困率の推移を示したものである。このデータは、ルクセンブルク・インカム・スタディ(LIS)という国際機関が、国際比較が可能なように、各国のデータを同一の定義で収集したものである。日本は、この国際機関に参加していないが、 LISデータと比較可能なように、図では日本についても同じ定義を用いて貧困率を計算している。ここにおける貧困概念も、相対的貧困であり、各国における社会全体の所得の中央値の五〇%である(計算の方法が若干異なるため、図2-2とは異なる数値となっている)。
 これをみると、日本の子どもの貧困率は、アメリカ、イギリス、カナダ、およびイタリアに比べると低いが、スウェーデンノルウェーフィンランドなどの北欧諸国、ドイツ、フランスなど大陸ヨーロッパ諸国、日本以外の唯一のアジア地域の台湾などと比較すると高い水準にある。すなわち、日本は子どもの相対的貧困が他の先進諸国と比較してもかなり大きいほうに位置していることがわかる。LISのデータにおいても、本書の冒頭に述べたOECDの報告書と同様の結果が得られたこととなる。さらに、他国と比べた日本の子どもの貧困率の高さは二〇〇〇年代に入ってからの新しいものではなく、一九九〇年代初頭から見られた傾向であることが追記される。
pp.53-54

 

日本では、政府による再分配後の方が、子どもの貧困率が高くなる

 

 社会保障の議論の中で、「貧困世帯」という視点が抜けたときに、最も被害を被るのが、子どものある貧困世帯であろう。なぜなら、子どものいる世帯はおおむね現役世代であり、社会保険料や税といった「負担」が最も大きい世代だからである。このことは、以下の国際比較により、明らかである。
 図3-4は、先進諸国における子どもの貧困率を「市場所得」(就労や、金融資産によって得られる所得)と、それから税金と社会保険料を引き、児童手当や年金などの社会保障給付を足した「可処分所得」でみたものである。税制度や社会保障制度を、政府による「所得再分配」と言うので、これらを、「再分配前所得/再分配後所得」とすると、よりわかりやすくなるかもしれない。再分配前所得における貧困率と再分配後の貧困率の差が、政府による「貧困削減」の効果を表す。
 これをみると、一八か国中、日本は唯一、再分配後 所得の貧困率のほうが、再分配前所得の貧困率より高いことがわかる。つまり、社会保障制度や税制度によって、日本の子どもの貧困率は悪化しているのだ!

pp.95-96

 

日本の母子世帯の子どもの貧困率は、母親の就労率が高いのにもかかわらず、極めて高い

 

 これらの世帯タイプ別の貧困率を見ると、母子世帯の貧困率が突出して高いことがわかる(六六%)。三世代世帯と両親と子どもの核家族世帯は、低い数値(一一%)であり、この二つの世帯タイプと、母子世帯との間に、大きな隔たりがあるのが特徴的である。母子世帯の貧困率は、OECDやほかのデータを用いた推計においても、六〇~七〇%の間で推移しており、親と同居した三世代の母子世帯においても、その貧困率は三〇%台と高い(阿部2005)。
 女性の経済状況が改善し、それが離婚に繋がっているという見方も多いが、母子世帯で育つ子どもの半数以上が貧困状況にあるのである。第4章にてOECDのデータを紹介するが、国際的にみても、日本の母子世帯の貧困率は突出して高く、OECDの二四か国の中ではトルコに次いで上から二番目の高さである。
pp.57

 

 母子世帯に育つ子どもの生活水準が、ほかの子どもの生活水準に比べて低いことは前に述べた。これは、他の先進諸国にても同じ状況であるが、日本の母子世帯の状況は、国際的にみても非常に特異である。その特異性を、一文にまとめるのであれば、「母親の就労率が非常に高いのにもかかわらず、経済状況が厳しく、政府や子どもの父親からの援助も少ない」ということができる。
 まず、就労率をみてみると、一九九〇年代を通じて、八〇%台後半から九〇%台がずっと保たれており(八四%(厚生労働省編2006))、他の国と比較するとその差は明らかである。図4-1と図4-2をご覧頂きたい。これは、OECD諸国のひとり親世帯(どの国においてもほとんどが母子世帯)の就労率と母子世帯の子どもの貧困率を比べてみたものである。これによると、日本のひとり親世帯の就労率は、ルクセンブルク、スペイン、スイスに続く第四位(三〇か国中)と、きわめて高い。しかも、就労率がこれほど高いのに、貧困率は、最悪のトルコとたいして変わらなく、上から二番目である。まさしく、母子世帯は「ワーキング・プア」なのである。
pp.109-110

 

 母子世帯における母親の長時間労働は、子どもが親と過ごすことができる時間の減少に直結する。日本と欧米諸国の母子世帯の母親の時間調査(一日に何にどれくらいの時間を費やすかの調査)を国際比較した研究(田宮・四方2008)によると、日本の母子世帯の母親は、平日・週末ともに、仕事時間が長く、育児時間が短いという「仕事に偏った時間配分」の生活を送っているという(仕事時間は日本が平均三一五分、アメリカ二四二分、フランス一九三分、ドイツ一六〇分、イギリス一三五分)。
 育児に手間暇がかかる六歳未満の子どもを育てながら働いている母子世帯に限ってみると、平日の平均の仕事時間は四三一分、育児時間については、なんと四六分しかない。参考までに、同年齢の子どもをもつ共働きの母親の平日の育児時間は平均一二三分である。母子世帯の母親の場合、土日の週末でさえも、仕事時間が平均一六三分もある。さらに、一九八〇年代に比べて、その傾向が強くなっているという。分析を行った田宮雅子神戸学院大准教授・四方理人慶應義塾大学COE研究員の両氏は、「シングル・マザーのワーク・ライフ・バランス」の政策が必要であると述べているが、まったくその通りである。
pp.120-121

 

 二〇〇二年の母子政策改革
 母子世帯に対する施策の中で、最も対象者が多いのが児童扶養手当である。
 児童扶養手当は、父親と生計を共にしない一八歳未満の子どもを養育し、所得制限を下回るすべての母子世帯(または養育者)を対象とする現金給付制度である。その給付額は、世帯の所得水準によって異なり、最高月四万一七二〇円(二〇〇八年度、二人目はこれに五〇〇〇円の加算、三人目以降は一人あたり三〇〇〇円の加算となる)から〇円まで段階的に決定されている。二〇〇七年二月現在、約九九万人が児童扶養手当を受給しており、これは、母子世帯の約七割となる。母子世帯の 増加に伴って、児童扶養手当の受給者数は増加しており、一九九九年の六六万人から、約一〇年後の二〇〇八年には九九・九万人に達した。
 こうした中、政府は二〇〇二年に、母子世帯に対する政策の大幅な改革を行った。改革の主目的は、「児童扶養手当の支給を受けた母の自立に向けての責務を明確化」し、「離婚後などの生活の激変を一定期間内で緩和し、自立を促進するという趣旨で施策を組み直す」(厚生労働省「母子家庭等自立支援大綱」)ことである。つまり、児童扶養手当など受給期間が長期で恒常的な性格をもつ所得保障は極力制限し、代わりに、職業訓練などを通して母親自身の労働能力を高めることにより、将来的には政府からの援助を必要としない「自立」生活を目指すというものである。
pp.132-133

 

日本は子どもの貧困に対して冷淡である

 

 子どもの必需品に対する社会的支持の弱さ
 筆者は、二〇〇三年と二〇〇八年に「合意基準アプローチ*1」を用いて、一般市民が日本の社会において何を必需品と考えるかの調査を行った。〇八年調査では、特に子どもに特化して「現代の日本の社会においてすべての子どもに与えられるべきものにはどのようなものがあると思いますか」を、二〇代から八〇代までの一般市民一八〇〇人に問うた。調査は、インターネットを通じて行われており、一般人口に比べて若い層が多い、所得が若干高い、などのサンプルの偏りはあるものの、回答傾向に大きなひずみはないと判断される。
 調査では、「一二歳の子どもが普通の生活をするために、〇〇は必要だと思いますか」と問いかけ、回答には三つの選択肢を用意し、「希望するすべての子どもに絶対に与えられるべきである」「与えられたほうが望ましいが、家の事情(金銭的など)で与えられなくてもしかたがない」「与えられなくてもよい」「わからない」の一つを選ぶようにした。調査項目は、「朝ご飯」「少なくとも一足のお古でない靴」「(希望すれば)高校・専門学校までの教育」など、子どもに関する項目の二六項目にわたる。その結果を表6-1に示す。
 驚いたことに、子どもの必需品に関する人々の支持は筆者が想定したよりもはるかに低かった。二六項目のうち、一般市民の過半数が「希望するすべての子どもに絶対に与えられるべきである」と支持するのは、「朝ご飯(九一・八%)」 「医者に行く(健診も含む)(八六・八%)」「歯医者に行く(歯科検診も含む)(八六・一%)」「遠足や修学旅行などの学校行事への参加(八一・一%)」「学校での給食(七五・三%)」「手作りの夕食(七二・八%)」「(希望すれば)高校・専門学校までの教育(六一・五%)」「絵本や子ども用の本(五一・二%)」の八項目だけであった。「おもちゃ」や「誕生日のお祝い」など、情操的な項目や、「お古でない洋服」など、子ども自身の生活の質を高めるものについては、ほとんどの人が「与えられたほうが望ましいが、家の事情(金銭的など)で与えられなくてもしかたがない」か「与えられなくてもよい」と考えているのである。
 文化の違いがあるものの、近似した項目について、他の先進諸国の調査と比べると、日本の一般市民の子どもの必需品への支持率は大幅に低い。たとえば、「おもちゃ(人形、ぬいぐるみなど)」は、イギリスの調査(一九九九年)では、八四%の一般市民が必要であると答えているが、日本では、「周囲のほとんどの子が持つ」というフレーズがついていながらも、「スポーツ用品(サッカーボール、グローブなど)やおもちゃ(人形ロック、パズルなど)」が必要であると答えたのは、一二・四%しかいない。同じく「自転車(お古も含む)」は、イギリスでは五五%、日本では二〇・九%であった(小学生以上)。「新しく、足にあった靴」は、イギリスでは九四%とほとんどの市民が必要であるとしているが、日本では「少なくとも一足のお古ではない靴」は四〇・二%である。「お古でない洋服」は、イギリスでは七〇%、日本では「少なくとも一組の新しい洋服(お古でない)」は三三・七%であった。一時は教育熱心であると言われた日本人のことだから、教育関連については支持率が高いのだろうと期待したが、それもイギリスに劣っている。「自分の本」はイギリスでは八九%であるが、日本(「絵本や子ども用の本」)では五一・一%である。
 これはイギリスだけが特に子どもの生活について意識が高いということではない。同様の調査をしたオーストラリアとの比較においても、日本は低い傾向が見られる。驚いたことに、日本では「国民皆保険」が達成され、すべての子どもが歯科治療や健診を受けられるはずであるが、「歯医者に行くこと(健診を含む)」への支持は八六・一%である。対して、オーストラリアでは九四・七%の人が「すべての子どもが歯科検診を受けられるべき」と考えている。オーストラリアでは、公的医療保険では、歯科健診はカバーされないのにもかかわらず、である。
pp.184-188

 

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 私がこの本を読んだきっかけは、id:kojitakenさんが主宰する『鍋パーティーのブログ』のコメント欄*2で、すべての子どもに与えられるべきものにはどのようなものがあると思うかを問う意識調査について、出展を尋ねる質問をして、「ぽむ」さまから、この本であることを教えていただいたことです。それから約2年半も経ってしまいましたが、この読書メモを公開したことを機に、改めまして、教えていただいたことに感謝申し上げます。また、この読書メモや、既に公開している稲葉剛氏の『生活保護を考える』の読書メモ*3を踏まえて、『鍋パーティのブログ』で書きかけている記事*4の続編もなんとか形にしていきたいということも、自分を動機づけるためにも表明しておきます。

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 ここからは、備忘録的にこの本からいくつか書き出しておく。 それが子どもの貧困対策の政策についてばかりであることには、書き並べてみてから気づいた。

 

 (アメリカの:ブログ主補注)ヘッド・スタートは、一九六五年より実施されている低所得の就学前児童の教育プログラムである。対象児童の年齢は、三歳と四歳、親の所得が公式貧困線以下の子どもを中心としている。九四年には、「アーリー・ヘッド・スタート(Early Head Start)」として拡充され、三歳未満の児童と妊婦へのサービスが追加された。ヘッド・スタートは、保育制度と誤解されることが多いが、実は教育を中心とする包括的な福祉プログラムである。このプログラムが発足した理由は、多くの低所得の子どもは、義務教育が始まる時点で、すでに「不利」を背負っているという認識があることである。貧困の子どもの発育に就学前から介入し、その「不利」をできるだけ早く緩和しようというのがプログラムのねらいである。

  ヘッド・スタートでは、「子どものすべて(whole child)」に着目した包括的なサービスが行われる。その内容は、健全な発育を促す教育プログラムのみならず、医療や歯科のチェックアップとフォロー、栄養サービス、両親向けの育児教育プログラム、そして家庭の育児環境に問題がある場合は各種の社会サービスの紹介など、親を含めた子どもの発育環境の全体を対象とする。障がいのある子どもは優先的に参加し、特殊訓練や各種の福祉サービスを受けることができる。また、プログラムに参加してから発見される障がいも多い。アメリカの障がいの定義は日本より広いものの、二〇〇六年に参加した児童のうち、一三%は、障がいをもっているという。このうち約半数はプログラムに参加した後に障がいが発見されており、ヘッド・スタートは障がいの早期発見と早期教育にも一役買っている。

pp.174-175

 

 

 子どもの貧困撲滅を公約したイギリス

 一九九九年、イギリスのトニー・ブレア首相(当時)は、子どもの貧困を二〇二〇年までに撲滅すると宣言した。そして、これは単なる夢物語ではなく、実行可能な政策目標として二〇〇四年までに貧困を四分の一に、二〇一〇年までに半減させるという計画をたて、次々と政策を打ち出している。二〇〇〇一年には児童税額控除(Children's Tax Credit)が導入され、そのわずか二年後の二〇〇三年には児童税額控除が衣替えしてChild Tax Credit として再導入されたほか、新しく勤労税額控除(Working Tax Credit)も設置された。

 児童税額控除だけを取り出してみても、日本との差は明らかである。児童税額控除は、所得制限がなく、子ども一人の場合でも年間五〇万円以上の給付(減税、税額が控除額より少ない場合は、差額)を受けることができる。日本では、税額控除の仕組みがなく、所得税の扶養控除があるが、これは最大年間一一万円程度の減税で、所得が多い世帯ほど減税額が大きい。また、同時にイギリスでは、税率の引き下げや、社会保険料の減免措置も行われてきており、保守党であった前政権のジョン・メジャー首相によって廃止された最低賃金制度も、復活され、その額も引き上げられている。

 この結果、一九九九年には三四〇万人と推計された貧困の子ども数は二〇〇四年には二七〇万人となった(二一%減)。最初のターゲットであった二〇〇四年の目標は達成できなかったものの、貧困の子どもの数は確実に減少し始めている。

pp.215-216

 

 対して、日本ではどうであろうか。ちなみに、イギリスのブレア首相が子どもの貧困克服を公約した一九九九年頃のOECDによるデータを見てみると、イギリスの子どもの貧困率OECD定義)は一三・六%、日本のそれは一二・九%である。大きな違いはない。しかし、この時期、日本の中で子どもの貧困が社会問題であるという認識はほとんどなかったといってもよい。そして、この傾向は、今にも続いている。

pp.216 

 

…厚生年金や健康保険においても、保険料の負担のあり方を議論する必要がある。高所得者層の負担を多くし、低所得者層の負担を軽減する一つの方法は、保険料額の上限を撤廃することである。現在は保険料額の上限があるために、所得がいくら高くなっても上限以上の保険料は課せられないのである。現にアメリカでは公的医療保険の保険料の上限は撤廃されており、日本においても検討されない理由はないであろう。

pp.233 

*1:「合理基準アプローチ」については、次のように説明されている。

 イギリスの著名な貧困研究学者のピーター・タウンゼンド(一九二八年~)は、人間の最低生活には、ただ単に生物的に生存するだけではなく、社会の一構成員として人と交流したり、人生を楽しんだりすることも含まれると論じた。彼はそれができない状態を「相対的剥奪」(relative deprivation)と名付け、「人々が社会で通常手に入れることができる栄養、衣服、住宅、住居設備、就労、環境面や地理的な条件についての物的な標準にこと欠いていたり、一般に経験されているか享受されている雇用、職業、教育、レクリエーション、家族での活動、社会活動や社会関係に参加できない、ないしはアクセスできない」状態と定義する。
 そしてタウンゼンドは、「週に一回は肉または魚を食べることができる」など基本的衣食住を表す項目から、「年に一回は旅行に行くことができる」「友人を家に招待する」など社会的な項目まで、六〇の項目をピックアップし、それらの充足度を測ることによって「剥奪状態」にある人の割合を推計した。これが、イギリス における六〇~七〇年代の「貧困の再発見」である。タウンゼンドはまた、人々の困窮の度合いを測る「ものさし」として社会のほかの人の生活レベルを用いるという相対的概念を、それまで絶対的なものさしとして捉えれていた貧困概念に持ち込んだ。これが「相対的貧困」の始まりである。人が尊厳をもって生きるためには、その社会に相応のレベルが必要であり、それが満たされない状態を「貧困」として再発見したのである。
 タウンゼンドの研究は、衝撃をもって受け止められ、その後、同様の研究がヨーロッパ各地で行われた。イギリス以外の国においても「貧困の再発見」がなされたのである。そしてこれらの一連の研究は、政治をも動かし、ヨーロッパにおける福祉国家のさらなる発展を促していくこととなる。
pp.180-181

 このように、タウンゼンドの相対的剥奪概念は、貧困研究の中でも画期的なものであったが、大きな批判もあった。その一つが、「剥奪状態」であるかどうかを測る六〇項目が研究者によって恣意的に選ばれたものであり、確たる根拠がないというものであった。たとえ、研究者が「一日三回の食事」や「友人を家に招待できること」を最低限に保障されるべき生活の一部と位置づけても、それが本当に必要であるかどうかは、どのような社会に生きているかによっても影響されるであろうし、個人それぞれの考えによっても異なるであろう。この問題を解決するために開発されたのが「合意基準アプローチ」である。
 「合意基準アプローチ」は、「最低限必要なもの 」を研究者ではなく、社会全体に選んでもらう手法である。具体的には、無作為に抽出された一般市民に、あらかじめ多めに選んだ項目リストのひとつひとつについて、それが最低限度の生活に必要かどうかを問い、回答者の五〇%以上が「絶対に必要である」と答えた項目だけを社会的に認知された必需品とする(これを「社会的必需品」という)。ここで重要であるのは、「あなたには〇〇が必要ですか」と問うのではなく、「この社会で、ふつうの人がふつうに暮らすのに〇〇は必要ですか」と聞くことである。たとえば、足の不自由な人が「私には自動車が必要だ」と思っていても、それは、その人が、日本に住むすべての人に自動車が必要と思っていることとは違うからである。
pp.182-183

*2:

http://nabe-party.hatenablog.com/entry/2016/12/22/233326

*3:

https://suterakuso.hatenablog.com/entry/20160810/1470831270

*4:

http://nabe-party.hatenablog.com/entry/2019/04/01/073950